« 雲仙・島原旅行その1 | Main | 宮崎で見たのは「シロノセンダングサ」かな? »

2015.11.30

島原旅行記その2、日本三大○○を発見!

橘湾岸スーパーマラニック(100km)を走った翌朝、疲労感があまりないので、走りながら気になった「金浜眼鏡橋」まで行きました。2km少し先のあたり。
01でも「片眼鏡」・・・
小浜温泉周辺を約7km走り時間調整、温泉オープンまでの。缶ビールを飲みながらブラブラ。
20151123_101758
ここです。300円、ややぬるめでのんびり入れました。
風呂上がりにはビールも飽きたのでハイボール。足湯に入ったりごろごろしながら時間をつぶし、昼飯には名物の「小浜チャンポン」を、表通りの店には行列が、雑誌か何かで紹介されたのかな?行列嫌いの私は当然パス。
昨日最後に走りながら温泉街で見つけた店へ。
02
和食・洋食もやっているようで、まさに「チャンポン」向きでは?
03
正解、魚介だしの効いたスープがうまかった。コップの中身は水でなく焼酎、大分減ってますが・・・

食後に小浜の街をブラブラ、04
近そうなので寄ってみよう。
05イチョウはまだ黄葉してませんが、
06
水流を活かした庭は見事でした。
更に歩くと
07
上之川湧水/炭酸泉、いずれも近そう。まずは湧水へ(島原にも湧水が多かった)
08
あまり冷めたくはなかった。
次の「炭酸泉」はちょっと解りにくい場所だったが、意外に良かった。
09
刈水鉱泉と呼ばれ26度程で、炭酸以外に塩分、微量の硫黄を含む独特の味。昔は温泉場だったと子供たちの作った看板にありました。

このような温泉を使った?のがこれ
10
「湯せんぺい」、私的には兵庫宝塚温泉の「炭酸せんべい」、我が群馬は磯部温泉名物「磯部せんべい」と共に「日本三大炭酸せんべい」としたい。
今晩は諫早泊まりなので時間は充分ある。思い立って暗い中を走った(歩いた)原城へもう一度行こう!
バス停で教わり、口之津で乗り換え、レースでのCP1、第二エイドだったなあ
11
天草へのフェリーターミナル。ここも行ってみたい。(来年?)
った
原城址は石垣だけでしたが、ここを暗い中大勢のランナーが走ったんだな~、兵どもが夢の跡・・・
12
天草四郎像、気品ある顔立ちだなあ、と思ったら北村西望の作だとか。
西望と言えば有名なのがこれ
13
今夏長崎で見た「平和祈念像」
また高崎市役所そばの
14
「将軍の孫」各地にありますね。
この三体を「西望三大像」と勝手に命名・・・
諫早に戻り、居酒屋(チェーンではなく本来の)で飲みすぎ・・・

翌朝、昨夜の店でお客さんに聞いた「諫早の眼鏡橋」を通って駅へ。
15
立派です。橋の長さは49.25m(長崎の眼鏡橋の約2倍)とか。
1957年7月の諫早水害で本明川の流れを堰き止め、被害を拡大させたとの指摘もあり、河川の改修工事にあわせ、解体する案も浮上したが、諫早公園に移設された。
眼鏡橋と言えば、

Dscn1462
長崎市の眼鏡橋、
先の金浜と併せ「長崎の三大眼鏡橋」と命名・・・
諫早神社には大きな楠が沢山ありました。
16

最後に、天草の乱につき、原城にあった碑文を全文記載します。
徳川幕府の、キリスト教徒弾圧
同時に、松倉重政、勝家父子二代にわたる悪性によって、
その日の生活を脅かされた有馬地方の信徒は、天草四郎時貞を盟主として、
幕府軍との一戦を決意。
 天然の要害、原城は、たちまちにして、修羅の巷と化した。

時は、寛永十四年十二月(1637年)。
 幕府の征討将軍板倉内膳正重昌は、諸藩の軍勢を指揮して、
総攻撃を加えること実に、三回。
 しかし、信仰に固く結束した信徒軍の反撃に惨敗、重昌、自らも、戦死した。
思わぬ苦戦に、あせった幕府は、老中松平伊豆守信綱を急派。
 陸海両面より、城を包囲。やぐらを組み、地下道を堀り、
海上からは、軍船の砲撃など、四たびの総攻撃。

 遂に、信徒軍の、食糧、弾薬ともに尽き果て、二の丸、三の丸、天草丸、
本丸と、相次いで落城。
 主将四郎時貞をはじめ、老若男女、全信徒相抱いて、古城の露と消えた。
これ、寛永十五年二月二十八日である。
 その数、三万七千有余。

思えば、何ら訓練もない農民たちが、堂々数倍に及ぶ、幕府軍の精鋭と
矛を交えること数ヶ月。
 強大な武力と、権勢に立向った、団結、情熱、信仰の強さ。
墜に、悲憤の最期を墜げたとはいえ、この戦乱は、当時の国政の上に、
痛烈な警鐘となり、人間の信仰の尊さを、内外に喧伝した。

 史家をして
「苛政に始まり、迫害に終わった。」
と、いわしめた島原の乱。
優美にして堅固。
 かつては日暮城とまで讃えられた原城。
いま、古城のほとりに立って、往時をしのべば、うたた、感慨無量。

 信仰に生き抜いた、殉難者の、みたまに対し、限りない敬意と、
哀悼の念を禁じえない。
 ここに、三百二十年祭を記念して、信徒、幕府両軍戦死者のみたまを
慰め、遺跡を、顕彰する次第である。
昭和三十二年五月二十五日
長崎県知事 西岡 竹次郎

この翌年在任中67歳で死去

« 雲仙・島原旅行その1 | Main | 宮崎で見たのは「シロノセンダングサ」かな? »

Comments

The comments to this entry are closed.